お茶の雑学

日本茶の歴史を知ろう ~誕生から現在まで~

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健康意識やダイエットへの関心の高まりで、世界で日本茶が一大ブームになっています。

日本国内でも、最近、「日本茶専門店」が続々オープンし、日本茶のブランドの高さが伺えます。

そんな世界に誇れる日本茶ですが、かつてはメイドインジャパンの日本茶は粗悪品として有名でした。

1000年の歴史を経て、現代のような素晴らしい日本茶が誕生したのです。その歴史を見てみましょう。

茶畑

日本茶の歴史

お茶の誕生

お茶が発祥したのは古代の中国で、韓の時代には、すでにお茶はよく知られていたようです。

日本にお茶が入ってきたのは奈良・平安時代のことです。

当時、中国の進んだ制度や文化を学びに中国を訪れた遣唐使や留学僧によって、日本茶もまた日本茶に持ち帰られたと言われています。

その頃のお茶は、一部の上流階級の人々にのみ、健康飲料のような感覚で飲まれていたようです。

非常に貴重だったため、一般には広まらずそのまま衰退していってしまったのです。

鎌倉時代~江戸時代

一度衰退したお茶が復活したのは、鎌倉時代のことでした。

当時の中国、宋ではお茶が活発に飲まれていました。

修業のため宋に訪れていた臨済宗開祖の栄西が、お茶の効能に感銘を受け、日本へ持ち帰ったことがきっかけと言われています。

その栄西から、茶の種をもらった華厳宗の僧の明恵(みょうえ)は、京都にある高山寺でお茶の栽培を始めました。

これが日本最古の茶園といわれており、現在の「宇治茶」の起源ともなっています。

鎌倉時代後期~南北朝時代には、様々なお寺がお茶を栽培するようになり、日本茶は武士にも普及していきました。

しかしながら、この時代ではなおも嗜好品ではなく、健康目的で飲まれることが多かったようです。

その後、室町時代や安土桃山時代になると、足利義満や豊臣秀吉が日本茶を愛好したことで、武家の間でも嗜好品としての日本茶が普及していきました。

同時に、村田珠光、武野紹鴎、千利休らによって茶の湯(茶道)も作られていきました。

当時の日本茶は、葉を粉状にして湯を注ぐ、いわゆる抹茶のような状態で飲むのが一般的でした。

しかも当時の抹茶は茶の葉を茹でて乾燥させたものを粉にしていたため、今ほどおいしくはなかったようです。

煎茶の誕生

日本茶の歴史が大きく変わったのは、江戸時代のことでした。

この頃、日本茶は幕府の儀礼に用いられ重要な役割を担っており、庶民にも日本茶が広まっていきます。

江戸時代初期には、中国から渡来した隠元(いんげん)禅師によって、淹茶(だし ちゃ/えんちゃ)法が伝わります。

これは、釜炒りした茶葉に熱湯を注ぎ、しばらく待つという急須を使う画期的な方法でした。

これによって簡単に煎茶を楽しむことができ、自由に煎茶を飲みを交わす「煎茶趣味」が江戸の庶民の間で流行しました。

「日常茶飯事」や「お茶をにごす」などという表現が生まれたのもこの頃です。

江戸時代中期になると、宇治田原湯屋谷の茶業家・永谷宗円(ながたにそうえん)が、茶葉を蒸してもみ、乾かす 「青製煎茶(宇治製法)」を確立します。

それ以前の日本茶は、緑色ではなく茶色でしたが、この青製煎茶(宇治製法)によって、鮮やかで美しい緑色のお茶が誕生しました。

この煎茶は、味も香りも良く当時の江戸で人気を集め、日本茶のスタンダードになっていきます。

その後、山本嘉兵衛(やまもと かへえ)が玉露の製茶法を発表し、煎茶の存在を確固たるものにしました。

この頃の日本茶はまだまだ贅沢品だったため、生産量は少なく、江戸の商人が宇治から買い付けをして流通させていました。

抹茶と和菓子

日本茶の貿易

明治時代に入り、長い鎖国が解禁されると、国内だけでなく世界に向けた日本茶の製造が始まります。

きっかけは安政3年、長崎の出島で日本茶の貿易商であった大浦慶が、イギリス人貿易商ウィリアム・オルと日本茶の直接取引を開始した事でした。

日本茶の輸出は当初、大浦慶が拠点にしていた九州が中心でしたが、徐々に大きな茶の産地である静岡からの輸出が増えていきます。

明治32年(1899年)には、静岡の清水港が開港し、日本茶を扱う外国商社が数多く置かれ、日本茶の主要輸出港として栄えます。

それに伴い日本茶の生産の中心部は宇治から静岡に移り、現代に続くお茶の名産地となりました。

その後も日本茶の輸出はアメリカを中心に拡大し、生糸に続く主要な品目で、当時の輸出総額のうち約2割を占めるまで成長しました。

日本茶の衰退

大正時代に入ると、お茶の輸出額が減少し始めました。

理由は、インドのアッサム地方の製茶がアメリカで人気になった事と、日本茶の粗悪品の増加でした。

乾燥が不十分で色が変色したり、輸送の間に腐敗してしまう事が多くありました。

こうした乾燥不足のお茶が出回るようになったのは、製茶機械が普及し始めたことと関係があります。

この頃には、生産コストを削減するために茶葉の製造機械が使われるようになりましたが、まだまだ品質は悪く、乾燥がうまくいかなかったのです。

品質問題は深刻化し、アメリカでは「米国粗悪不正茶及着色輸入禁止に関する大蔵卿訓令」が発令されるまでに発展します。

日本も必死の機械の改良に尽力しましたが、主要輸出国アメリカへの輸出は減少していったのです。

新しい販路

日本茶のアメリカへの輸出が衰退したことで、日本茶業者は日本茶の新規輸出国を開拓しはじめます。

その甲斐あって、北米やヨーロッパ、アフリカなど世界に広まっていきます。茶箱に日本らしいデザインのラベルを貼ったことも注目を集めました。

その後も大正14年に、それまで中国からお茶を輸入していたソ連で、日本茶がブームとなり、日本茶の輸出量はピークになりました。

ところが太平洋戦争が始まると、物資や人的不足によって、日本茶の生産量は低下していきます。

戦後、高度経済成長期に入ると、国内で日本茶の消費量が増加し、日本茶の供給が生産量を上回り価格が高騰しました。

これを受けて日本茶の輸入自由化が開始され、昭和41年には輸入量が輸出量を上回るようになります。

こうして輸出産業であった日本茶製造は、内需向けの製造に変わっていきます。

缶飲料やペットボトルの開発によって、より日本人の生活の一部として根付くことになったのです。

改めて世界へ

日本の代名詞と言える日本茶ですが、私たちの生活に欠かせないものとなったのは、意外にもつい最近のこと。

かつて、海外では、メイドインジャパンの日本茶=粗悪というイメージが根付いていましたが、改良を重ねた様々な人の努力によって今やメイドインジャパンの日本茶は高い評価を得ています。

そんな繁栄と衰退の1000年の歴史が生み出した味わい深い日本茶、たまには急須で頂いてみるのはいかがでしょうか。

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